「阿武隈」を下り、丙飛から飛錬へ。九四式水偵は離水する際、頭を左に振る癖があった。手作りが多く、同機種でも皆違う。いち早くつかんで一人前だった〈証言 語り継ぐ戦争〉

2020/08/26 16:00
小松島航空隊知多分遣隊時代の井ノ久保武義さん(前列右から2人目)。後列右から2人目が特攻で戦死した飯塚英次さん(井ノ久保さん提供)
小松島航空隊知多分遣隊時代の井ノ久保武義さん(前列右から2人目)。後列右から2人目が特攻で戦死した飯塚英次さん(井ノ久保さん提供)
■井ノ久保 武義さん(94)宮崎市熊野
 日米開戦の口火を切ったハワイ作戦後、私が主計兵として乗り組む日本海軍の軽巡洋艦「阿武隈」は休む間もなく、太平洋やインド洋を転戦した。

 1942(昭和17)年2月、北西太平洋の海軍根拠地、パラオ諸島に寄港した際、念願だった航空機搭乗員に転科するための「丙種飛行予科練習生」(丙飛)の試験を受けた。経理事務室で業務の合間に地道に勉強を続けたかいあって合格。同年5月、大湊港(青森)で1年半を過ごした艦を下り、丙飛16期生として土浦海軍航空隊(茨城)に入隊した。

 操縦員の適性を認められ、飛行術練習生(飛練)に移る際に、希望した機種が水上機だった。阿武隈に1機だけ搭載されていた九四式水上偵察機(水偵)の操縦員で、相談によく乗ってもらっていた香田さんという一等航空兵から、「いつか一緒にやろう」といわれていた。その約束を果たしたかったからだ。

 鹿島海軍航空隊(茨城)での九三式水上中間練習機(赤とんぼ)課程を経て、小松島航空隊知多分遣隊(愛知)で、3人乗りの九四式水偵を使った実用機訓練に入った。

 九四式水偵は離水する際、頭を左に振る癖があり、慣れるまでは操縦が難しかった。当時、飛行機はまだ手作りの部分が多かったから、同じ機種でも皆癖が異なる。それをいち早くつかむことができて、はじめて一人前の操縦員だった。

 実用機訓練を終え、44年2月、実戦部隊である佐世保海軍航空隊(長崎)への配属が決まった。

 飛練でともに汗を流した仲間に甲種飛行予科練習生(甲飛)8期生の飯塚英次君がいる。旧制中学校から軍に入った飯塚君は、丙飛の私よりも出世が早かったが、軍歴の長さを尊重して、「先輩、先輩」と、立ててくれていた。

 飯塚君は知多分遣隊同様、水上機の練習航空隊である北浦海軍航空隊(北浦空・茨城)の教員として赴任することになった。家の跡取りだということを知っていたから、「戦地でなく、上げ膳据え膳の内地勤務でよかったなあ」と、彼の幸運を祝福した。

 その飯塚君は45年5月4日、北浦空で編成された神風特別攻撃隊「第一魁隊」の先任下士官として、指宿海軍航空基地を出撃、戦死した。東京・浅草に住んでいた家族全員を3月10日の東京大空襲で失い、自分の死で家が断絶してしまうことを悩みながらの出撃だったらしい。

 実戦部隊に行った自分が生き残り、生き残る可能性が高い練習航空隊に行った仲間が特攻に出される。戦争では人の運命はどう転ぶか分からない。

※2016年9月6日付掲載

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