「空襲日記帳」を手にする中馬ヒデ代さん=知名町久志検
鹿児島県知名町久志検の故中馬ツル子さんは、太平洋戦争末期の1945年1月から約1年間、米軍機が沖永良部島に飛来した日時や数、攻撃の様子、被害を克明に記録していた。これらを「肉眼で見た事である」などとA4判ノートにつづった「空襲日記帳」を、三女ヒデ代さん(72)が見つけた。
ツル子さんは当時18歳で、実家の農業を手伝っていた。高台の久志検集落から見渡せたらしい。原本が鉛筆書きだったとして1992年にペンで書き写した。99年に73歳で亡くなった。
日記帳は45年1月22日から46年1月20日までの38ページ。3月1日午前7時、14機が急降下し「田皆(中略)知名約180戸焼失」とある。沖縄戦が始まった同26日、4機が「約1時間ごとに9回来襲した」。4月5日には「艦砲射撃にて上平川、和泊の大部分焼失」と記した。
沖縄戦で旧日本軍の組織的戦闘が終わったとされる6月23日以降、「夜も爆音」「早朝より爆音」といった記述が目立つ。日本が無条件降伏した8月15日後もほぼ連日、米軍機が飛来した様子がうがかえる。
久志検の実家に暮らすヒデ代さんは昨年、遺品の整理時にノートに気付いた。「母はきちょうめんで筆まめだった」と振り返る。日記帳を知名町に寄贈する意向といい、「太平洋戦争時に島で何があったのか、多くの人に知ってほしい」。
町誌によると、空襲などで沖永良部島の計42人が死亡し、住宅計1487戸が被災した。島の近現代史に詳しい知名町中央公民館の前利潔さん(62)は「空襲があった日付など町誌や奄美守備隊日誌に欠けている内容を補完でき、貴重だ」と話した。