空襲で亡くなった父・信一さんの遺影と川田満子さん=姶良市脇元
■川田 満子さん(91)姶良市脇元
1945(昭和20)年7月27日。あの夜、鹿児島駅で見た光景は思い出すのもつらい出来事だ。
私は43年ごろ、両親と大阪市此花区から母・ナツの郷里である現在の姶良市脇元に引き揚げてきた。鹿児島市の女学校に編入し、45年当時は16歳だった。
父・信一は、現在の南九州市知覧出身。大阪で警察官だったが、鹿児島に帰ってからは農業をしていた。27日は近所の人に付き添いを頼まれ、故郷の知覧まで買い出しに行くことになった。
昼すぎに鹿児島駅へ着く日豊本線の列車だったので、塩にぎりを握って持たせた。普段は親子げんかなどしないのに、その日に限って、取るに足りないことで口論になり、口答えをしてしまった。
それが今生の別れになるとは、思いもしなかった。
夕方になって、一緒に出掛けた男性が家に来た。「お父さんは帰ってきやしたなぁ」
鹿児島駅に着いた直後、米軍機の爆弾攻撃を受けたという。すさまじいごう音と地響きで辺りは騒然とし、みな逃げ惑った。
男性は、父が見知らぬ幼子とその母親にしがみつかれているのを見たが、男性自身も逃げるのに必死で見失ってしまったらしい。目に付いた手押し井戸ポンプの影に隠れてどうにか助かったものの、爆音で片方の耳が聞こえなくなっていた。
「やられたかもしれない」。私と母は慌てて、近所の人に手伝いをもらい、リヤカーを引いて鹿児島駅まで18キロほどの道のりを急いだ。駅には次々と、人々が遺体を捜しに訪れていた。
ちょうど月夜の晩だった。駅舎のあちこちには爆弾の大きな穴が開き、男か女か分からない真っ黒に焼けた遺体がいくつも横たわっていた。人間の形をとどめず、煙が出ている遺体もあった。人の焼けた強烈な臭いが鼻を突く。口では言い表せない惨状だった。
結局父は見つけ出せず、諦めてまた歩いて帰った。焼けた臭いが頭に焼き付いて、しばらくは何も食べる気になれなかった。
お骨がないまま、唯一残っていた洋服で葬式をした。後日、知覧の祖母宅に報告へ行くと、祖母は「もう魂は帰ってきたど」と言った。夢にでも出てきたのか。びっくりしたことを覚えている。
その後の8月6日、住んでいた脇元一帯でも空襲があった。昼食の準備で家にいた。防空壕(ごう)に逃げて助かったものの、家は全焼。父を失って学校も辞めざるを得ず、豆腐を焼いて田舎に売りに行ったり畑を作ったりして、母と2人で難儀した。
その後、49年に現在の姶良市平松にあった県の教員結核保養所に職を得た。複数の異動を経て、92年まで県職員として勤めることができた。
終戦から76年たった今年7月、鹿児島駅の空襲に関する集いに近所の人と参加し、初めて慰霊に駅を訪れた。いつか行きたいと思い続けてきた。構内に建つ慰霊碑に手を合わせ「私は元気です」と父に報告した。念願がかなってうれしかった。
駅舎は、5代目のきれいな建物になっていた。空襲の怖さや戦争を知らない今の人たちは本当に幸せ。平和な世の中がずっと続いてほしい。